15日午後2時。
父を見送ってきました。
外面良くって見栄っ張りでオシャレが好きで子供のような父でした。
天国でもオシャレに歩けるように、一番似合っていたハンチングと、マスタードカラーにブラックのチェックの入ったお気に入りだったシャツと、これまたお気に入りのクリーム色のチノパン。
我が家の庭で満開を迎えたイエローのヤマユリと真っ白な釣鐘草。
姪っ子がかってきてくれたひまわりと薄いピンクのポピーの花。
それから父が大好きだったトラとロクとナナの写真を棺の中に入れました。
胃癌が見つかってから約1年。
ちょうど1年まえごろ、以前脳梗塞を患い血液サラサラにする薬を飲んでいたので、胃カメラでみた父の胃は、あちこち真っ赤に腫れあがり、ところどころにあった腫瘍からはジワリジワリと血液が流れていて血の海でした。
抗がん剤には負けてしまいましたが、抗がん剤を止めてからは見る見る元気を取り戻し、最近では毎朝恒例の両親のデカい声の口論の五月蠅さで私は起床していました。
どんどん食が細くなり、思う様に体が動かせなくなって、本人はそんなイライラと、物凄く情けないのとでいっぱいだったと思います。
私と同じで、頑固で曲がったことは大嫌い。
人に頼るのが苦手で何でも自分でやらなきゃ気が済まない。
「こんなにお前たちに世話かけるなんて思わなかった。」
そう言って、1度だけ、泣いていたと母が教えてくれました。
本当なら、私にも弱いところは見せたくなかったのだと思います。
私は、もっと、もっと、世話をしたかったな。
思い出はたくさんたくさんあるけれど、私には本当に甘かった父です。
逆に、昭和の頑固おやじでしたから、母にはキツイ口調で良くぶつかって口喧嘩はしょっちゅうでした。でも、寂しがりやで、喧嘩の後、母に先に声をかけるのはいつも父の方からで、心の中で「甘えんぼさん」と微笑ましく思っていました。
最後の言葉も、「ばあちゃん、」でした。
父が定年になって、まだ母が働いていたころ、車で送り迎えをずっとしていました。
埼玉では珍しく大雪の日があって、車で送れないから休めという父に、仕事だから行かなきゃと徒歩で出勤した母。そのころ、母も少し足を悪くしていたので、やっぱり「行くな」「行かなきゃ」で出勤前に大喧嘩。「勝手にしろ」と機嫌を損ねてぷいっとしてました。
夕方のまだ少し暗くなる前、仕事先から「今から帰るね」と母から連絡がありました。ゆっくり歩いて帰るから心配しないでと。
暫くすると、家から父が消えていました。
まだ雪がどさどさと降り積もるなか、母が傘をさして雪と格闘しながら20分ほど歩いていると懐中電灯の光が見えて
「かあちゃん!大丈夫か!」
そう叫んで傘をさし、大きく手を振りながら父が迎えに来てくれたそうです。
二人して転ばないように、雪だらけになって帰ってきました。
私じゃ危ないからって、こっそり自分で迎えに行ってたんです。
この人と結婚して改めて良かったなぁと、涙がでたわと母が教えてくれました。
機嫌を損ねるとなだめるのが大変だった父でしたが、とても大きく根っこは優しい人でした。
1年、病気と闘って、さぞかししんどかったと思います。
今頃は、虹の橋で待っていた我が家のワンコやにゃんこたちと合流して、しんどさから解放されて、でも心配性だから、私や母が大丈夫かな~って見ていてくれていると思います。
心配かもしれないけど、お母さんは私と妹でちゃんと守るから、お空から見ててね。
若いころにガラス職人をしていた父が最後に褒めてくれたレジン作品です。